美食ブログ

味の評価Ⅰ:「旨い」「まずい」しかない?

2012年08月22日

 我々は、旨い・まずい以外に、これといって味を評価する言葉を持っていないようだ。同義語がいくつかあるが、「旨い」を「おいしい」と言い換え、「まずい」を「あじない」(古い大阪弁なら「もみない」)と言ってみたところで、何が変わるでもない。ステーキの美味しさと寿司の美味しさは、全く別物だろうが、評価する段になるとやはり旨いかまずいかである。味の形容は、それこそ過去の作家や評論家が全力を傾けて様々な工夫を凝らしているが、味の評価とは関係が無い。千万言を費やして味を形容しても、その後に、「だから旨い」でも「しかしまずい」でも、自在につなげることができる。
 なぜなら、味の形容は、美辞麗句を連ね、適切かつ独創的な比喩を尽くそうとも、味そのものは伝えることができないという当然の事実があるからだ。例えば、長い歴史によって多くの比喩を持つワインの評価。「青りんご、アップルミントなどの風味が豊富で、ミネラル感が強く、火打石の香り云々」というあれである。一つの文化として、大変興味深いし尊重もしているのだが、どれだけ味の伝達力があるのかは、疑問に感じざるを得ない。ワインを知らない人にはほとんど何も伝わらないだろうし、ワインに精通している人にはそんなまどろっこしい表現をしなくとも、「シャブリの味」と言った方が早いだろう。伝統的なワインの評語が、何も伝えられないとは思わないが、伝達が可能となる状況も内容もごく限られている。そして、当然ながら、味そのものは飲んでみないとわからない。
 数ある美食の評論の中には、奇跡の筆力で味の何かを表現しえていると思われるものもある。しかし、いったい何を表現しえているのか、自分は何を納得したのかと考えると、良く分からない。「表現できている(いない)」のはわかるのに、「何が表現できている(いない)」かは、わからないという不思議な感覚。料理やレストランの批評を読む時、私がしばしばおぼえるものである。この正体については、いつか考察してみたい。ともかく、そんな名文でも、味の形容はさておき味の評価としては、旨いかまずいかに収斂せざるを得ない。
 我々は、味の評価として、「旨い―まずい」という1次元の評価軸しか持たないのである。ステーキも寿司もケーキも、一緒くたにこの直線の上に並べられる。随分杜撰なようだが、長い人間の歴史で、この一つの評価軸しか見出されなかったのだから、これで必要にして十分なのかもしれない。或いは、遠い将来、「旨い―まずい」以外の味の評価軸が発見されるかもしれないが、今の私には、それがどんなものか想像もできない。
 勢い、料理やレストランの味の評価をすれば、「美味しい」や「美味しくない」の羅列にならざるを得ない。私は、それを恐れないでおこうと思う。それしか評価軸が無いのだから。
 しかし、「美味しさ」ということをできるだけ自由に、多面的にとらえたい。そうすることで、評価軸は「旨い―まずい」の一次元であろうとも、それなりの奥行きが出るように思われるからである。そのことについては、稿を改めよう。